初代・高橋十一さんは、まさに職人中の職人だったとか?
初代は山形県の貧農出身で、しかも十一番目の子どもだったんです。だから名前は十一と書いて「といち」と読ませます。人には冗談で「プラスマイナスと書いてください」なんて言っていました(笑)。当時の尋常小学校を卒業後、すぐ奉公へ出されて和菓子職人になったので、そういう意味では本当に生粋の職人です。仕事に信念がありますから、作った菓子を「粗品」と言われるのを嫌うんですね。「うちは粗品は売ってません」と。それが親父の主張なんです。
初代は戦前、溜池にあった和菓子屋で職長をしていました。ところが戦後にその店が廃業してしまい、赤坂の自宅兼工場で細々と菓子を作って売り出しました。それが昭和22年頃のことです。赤坂はもともと花街でしたから料亭が多く、最初はお茶菓子で取っていただき、だんだんおみやげに...という形で少しずつ、店らしい形態ができてきたんですね。場所柄もあり、次第に皇室関係や政財界の方々にもご贔屓をいただくようになりました。
父は上生菓子が得意でしたので、当初から店頭には必ず季節のものを並べております。戦後すぐは材料も揃わず2、3品程度からだったと思いますが、現在は常に10品、多いときは13品ほど。それが「塩野」の伝統ですね。
創業から60年。和菓子をめぐる世界は変わりましたか?
私が大学を卒業した昭和40年頃は洋菓子の人気が高く、和菓子はあまり売れなかったんですね。うちでも、幾つも種類のあった最中の数を減らしたり、一時期、和風喫茶室を経営したこともあるんです。
その時分に初代もいろいろと味の工夫をして、伝統的なものでも作り方を少しずつ変えたり、また新しく「塩乃羊羹」を売り出したりもいたしました。長野の諏訪地方に塩味のきいた塩羊羹という菓子があるんですね。そこからヒントを得て、赤坂の「塩野」らしいものを作ろうとずいぶん研究したんです。おかげさまで数年後には非常に忙しくなり、職人も増えました。当時、私は大阪の「鶴屋八幡」さんへ修行へ行っていたんですが、手が足りないから帰ってこいと呼び戻されたんですよ。本当はもう少し、あちらで勉強したかったんですけどね(笑)。
また先代の頃から全国の和菓子屋の息子さんたちを引き受けて、北海道から九州まで何百人もの職人さんを送りだしてきました。その連中が集まって、5、6年前から「塩野豊友会」という会を作ってくれたんですね。2年に一度の会合が楽しみなんですよ。
父が亡くなった後も、うちで数十年働いている職人を軸に先代のやり方を続けていますから、私が二代目を継いでもプレッシャーのようなものはなかったんです。怖いもの知らずですね(笑)。やはり父、そして母が作ってきた「塩野」の伝統を守っていくことが自分の仕事だと思っています。
私の日課は毎朝4時頃に起きて朝風呂に入り、5時には工場へ出る。やはり店主が一番に入らないとぴっとしませんですね。それから9時まで仕事をして朝食を取るんです。今年66歳になりましたが、まだまだ引退の年齢ではないですね。60歳を過ぎてから合気道を始めて現在は二段。1人2人は投げ飛ばしますよ(笑)。仕事もあと30年は頑張るつもりです。
また月替わりの上生菓子は、毎月ある程度のものは同じですけれど、その中へ新しいものを一つ、二つ加えています。たとえば去年の夏は沖縄をイメージした「美(ちゅ)ら海」というお菓子を作りました。金玉と葛を使って、全体を青く、中に魚をイメージした赤いもの、黄色いものをぱっと散らしたデザインで、ぷりぷりした食感も面白いと思います。
やはりどんどん次のもの、次のものと思っていますから。先へ進む努力を怠ってはいけないですね。